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2008年10月27日

萬福寺文華殿 秋期展の講演会

萬福寺

秋期展のテーマ『伝道布教最後の旅・・新黄檗の開立・・』にちなんだ講演会にて、弊所職員の能仁晃道が講演をさせていただきます。
秋の宇治を訪れる方は、是非黄檗宗本山、萬福寺に是非お立ち寄り下さい。

演題:『明僧渡来と本朝臨済禅の覚醒』
講師:兵庫松谷寺住職、禅文化研究所所員 能仁晃道禅師
日時:11月9日(日)午後2時より
場所: 黄龍閣別館 真空の間 受講料無料。参加自由ですが、電話予約が必要です。
    ※ただし、入山料と文華殿入館料(200円)が必要。

●萬福寺文華殿 TEL:0774-33-1199(専用)


2008年09月25日

行雲流水 1

高岡の晩夏の雲と海
高岡の晩夏の雲と海


禅宗の修行僧のことを「雲水(うんすい)」という。
もとは「行雲流水(こううんりゅうすい)」ということで、ひとところに留まらず、自由なさまをいう。つまり雲水は、一所不住で、諸方におられる禅匠をたずねて行脚するものなのである。
実際、唐代や宋代の禅僧の伝記をみても、修行中にはそれはそれは途方もなく遠い距離を行き来して行脚されているし、日本でも白隠禅師でさえ、北は新潟から南は愛媛まで、諸方の禅匠に参じている。
ところが現在というと、多くの雲水は、ある一僧堂で一人の老師について修行するというのが、あたりまえのようになってしまっている。
よく、「禅の修行は厳しいですね」と言われる。もちろん厳しいが、師を求め諸国を行脚する本来の雲水としての修行はもっと厳しかったであろう。

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2008年08月08日

盂蘭盆に思う

蓮華

関東の盂蘭盆は7月だそうですが、ここ関西は8月盆ですから、愈々これからが本番です。炎天下、境内の墓地に出てお経を読まされるときなど、いったい誰がこんな暑いときをお盆に決めたんだと、秘かに恨めしくなります。しかし、お寺にやってくる人たちの顔ぶれが、いつもと違ってなんとなく華やいでいるのを見ると、こちらも汗を拭き拭き頑張らなければ、という気になります。
ここ滋賀の田舎では、昔からお盆になると、都会で暮らしている人たちが、家族を引き連れて故郷へ帰ってきます。するとお寺が一変して、昔馴染みの社交場と化すのは不思議な夏の風景です。それを見ると寺の和尚や寺庭の者も、今更のように日本仏教の健在を実感し、得も言われぬ充実感に満たされたりするのです。

誰かの句に、-墓拝む 人の後ろを 通りけり-というのがあります。今年もお盆を迎え、普段はすっかりご無沙汰していた亡き人たちへのお詫びにと、花や線香を持ってお墓へやってくると、もう既にみんなが墓を洗ってお供えを済ませ、一心にお経を唱えています。その邪魔にならないように、そっと後ろを通らせて頂く、という状景ですね。
私はそこに、日本人としての、言葉に表せない共感が詠われているように思います。仏教が難しい教理や厳かな儀式によってではなく、このような深く素朴な民俗信仰に支えられて伝えられてきたものだということを、今年もまたこうして私は実感させていただくのです。そういうお盆に会うのももうあと何回か、などとわが命を惜しみながら。


禅文化研究所所長 西村惠信


*研究所は、明日8月9日より17日までお休みをいただきます(ブログもお休みさせていただきます)。
お問い合わせや、書籍などをご注文いただきました方には御迷惑をおかけいたしますが、どうか宜しくお願い申し上げます。

2008年06月24日

「女」の幸せ

ひつじ草


平安時代、女性は罪深いものとされ、救済への道を閉ざされていた。女身は「垢穢」であり、一たび男性になってから成仏できるという『法華経』の「変成男子」は有名である。

自身の仏道修行への道を閉ざされた平安貴族の女性たちにとっての代替措置の一つに、息子を僧侶にするというのがあった。立派な高僧となった息子を媒介として自身も救済に預かろうとしたのである。

だから、彼女たちは、大変な教育ママであった。その典型、恵心僧都源信の母は「賢母」として有名だ。『今昔物語集』などによると、次のような人物であった。

幼くしてやんごとなき学生となった源信は、大后の御八講に召されて賜り物を受けた。その一部を故郷大和の母のもとに送ったところ、母は

「…名僧にて花やかにあるきたまはむは、本意に違うことなり。」

と戒めた。母の誡励をありがたく受け取った源信は、比叡山を下ることなく修行に励んだ。

そして年月が過ぎ、源信のもとへ、母危篤との知らせが舞い込んだ。何とか親の死に目に間に合った源信の導きによって母は念仏を唱え、息子に見守られながら安らかに浄土へと旅立った。

このような「女」の願いは、自らが達成できなかった宗教的願望を、息子に投影し補償させているにすぎないとも言えよう。フェミニズムの立場からも、このような母親像は当然批判の対象とされている。

しかし、立派な高僧に成長した息子に臨終の引導を渡してもらい、その腕の中でやすらかに息を引き取る、そんな理想には、子を持つ「母」としての偽りのない喜びが隠されていることも否定できない事実ではなかろうか。

2008年04月18日

生きることは 一筋がよし 寒椿

生きることは 一筋がよし 寒椿
各派管長老師のインタビュービデオの制作が進んでいる。 妙心寺管長の東海大光老師のDVDビデオのタイトルは、「一筋がよし 寒椿」というタイトルに決まった。 これは、初代の「伊豆の踊り子」を撮った映画監督・五所平之助(1902~1981)の

  生きることは 一筋がよし 寒椿

という句を、東海大光管長が好んでいると言われているためだ。

一旦、自分がこれと決めたら、とにもかくにも一心不乱で突き進んでいくことが尊い。見事な俳句である。
東海大光老師のお話からは、この句を好んでおられるのがよくわかる力強い気迫が伝わってくる。在家から小僧になり、迷うことなく真っ直ぐに突き進んできた結果が今の自分になっているとおっしゃっている。

現在、大本山妙心寺は、平成21年の開山無相大師650年の遠諱に向けて全国からの参拝法要も多く、また各地へ赴いてのご親化もあり、管長として多忙な毎日であろうと思うが、その中のわずかな閑を見つけては、陶芸や山登りといった本格的な趣味も楽しまれている。


DVDのジャケット(未確定)

現在編集中のDVD「禅僧が語る」シリーズ、「一筋がよし 寒椿」(妙心寺第677世 東海大光老師)予価1575円(税込)をお楽しみに。

2008年04月11日

白隠墨跡展とフォーラムのご案内 於:松島 瑞巌寺


松島の瑞巌寺での白隠墨跡展とフォーラムのご案内です。
詳しくは画像をクリックして下さい。

ちなみに、講演をされる芳澤勝弘氏は、現在、花園大学国際禅学研究所教授ですが、以前は、禅文化研究所の編集主幹で、私たちの上司でした。
したがって、「白隠禅師法語全集」は、編集主幹時代の成果です。

2008年03月04日

「御大切に」

福寿草

上田閑照先生の新刊書『言葉』(岩波現代文庫・哲学コレクションⅢ)。謹呈の栞に、「言葉の問題」は私の思想の動脈であったことに気がつきました、御大切に、と御書き添えくださった。

「御大切に」という先生の「言葉」が、ほんとうにありがたい。先生のあたたかさが静かに心にひろがって、ご本を頂戴した日は、雪が降りしきっていたけれど、一日中あたたかだった。今もご本を手に取ると、なおあたたかい。おそらく先生は、書を認められるとき、「御大切に」という言葉をお書きになるだろう。しかし先生が私にくださった「御大切に」は、たったひとり私のためにお書きいただいた唯一無二の「御大切に」で、天地一杯の「言葉」だ。そのことが何やかやと心騒がしい日を送る私に底知れぬ勇気を与えてくれる。


本書で、上田先生は、西谷啓治先生の「言葉」を次のように記しておられる。

――西谷啓治先生のもとで私は哲学を学び始め、先生が生涯の師となった。四十代半ば、その二、三年来の経験に打ちひしがれて、先生に「すべてがいやになりました」と訴えたとき、一呼吸、間をおいて先生は言われた、「それはいいことだ」と。これはその弟子の存在を別調に転ずる一転語になった。――

2008年01月29日

雪の相国寺

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一連の管長老師の収録(禅文化研究所より、この春にDVD発売予定!)で、相国寺を訪れました(1/27)。
この日は朝から雪。家を出る時から、「雪降る寺の美しさはいかばかりか…」と、寒いながらも心は暖かく楽しみにでかけました。
静かな境内で、音もなく空から舞い降りる雪。高くそびえ立つ法堂。
桜や紅葉の気候の良い時ばかりではなく、多くの人にこの寒い凛とした空気の京都も味わって欲しい気持ちでいっぱいになりました。
観光客誘致の為、冬の京都では非公開寺院の特別拝観を行なっていますが、これは観光客にとっても本当に良い機会だと思えます。
どちらかというと、寒い冬には人の気持ちは内にこもりがちかもしれません。ですが、そんな時にこそ、さらに自分を見つめるべく、静かな所を訪れてみるのはいかがでしょうか。

080129-2.jpg

撮影のあった、大光明寺の門前。撮影風景などのレポートは、明日明後日とアップさせていただく予定です。

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2007年12月07日

2008年 禅語カレンダー

以前にもご案内申し上げましたが、年も暮れてきたところで再度ご紹介を。
2008年の研究所発行禅語カレンダーです。
お値段も手ごろですので、年末年始のご挨拶・贈り物と一緒にいかがでしょうか。

禅語カレンダー08

今年は、天龍寺第7代管長、また天龍寺僧堂師家として多くの雲水の指導にあたられた関精拙老師(1877-1945)の画より選りすぐりの12枚。
毎月、精拙老師の画や賛と、それにあわせた禅のことばを楽しんでいただけます。

50部以上、100部以上のお申し込みにつきましては、1部あたりの価格も割引き価格となり、50部以上からは、カレンダー下部に寺名や社名などの刷込み印刷も承ります(100部以上なら刷込み無料)。

詳しくはこちらから

【表紙・ねずみに乗った大黒天】
手に持てる 打ち出の小槌 振り回し
何を出すやら 大黒の天
布袋頭、解開し了わり
十方世界、蕩蕩として辺無し

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2007年11月15日

第4回 西村惠信所長といく“禅と文化”の旅 その1

奈良の紅葉

11/3(金)、第4回西村惠信所長といく“禅と文化”の旅のご報告です。
行程はこちら

奈良の町は思った以上に木々の紅葉も美しく、時にバスの中から歓声があがりました。
まず目指すのは大和三門跡寺院の一つ、妙心寺派の円照寺です。普段公開されていませんので、初めて訪れる方がほとんどだったのではないでしょうか。
バスを下りてから皆で参道を歩きます。山に分け入っていく感じで、空気は徐々にひんやりと透明感を増していくようでした。江戸時代、この寺の開山であられる梅宮さまがいらっしゃった頃、門跡寺院であることから御殿と呼ばれはするものの、いかばかりの侘びしさであっただろうと思いをはせます。

参道

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2007年09月21日

西村惠信所長出演、TV番組再放送のお知らせ

禅文化研究所・西村惠信所長が出演しました番組が、再放送されます。
早朝の放映となりますが、早起きは三文の徳! 是非ご高覧下さい。

9月23日(日) AM5:00~6:00
NHK教育テレビ
こころの時代~宗教・人生「自己を究める~一休の生涯から~」

2007年08月16日

居士 -こじ-

居士とは

戒名に使用される「居士」という尊称。
本来は在家でありながら仏道に精進する男性を称する語でした。

仏教で使う居士の語は、サンスクリットの「グリハパティ」、すなわち「家の主人・家長」の訳語ですが、特にインドの四姓の中のヴァイシャ階級の資産家を呼ぶときに使用されたようです。ヴァイシャは商工業に従事し、仏教を信奉する富豪も多くいました。
『祖庭事苑』という禅籍には、居士と呼ばれるための四つの条件が挙げられています。

  およそ四徳を具するものを、すなわち居士と称す。
  一には仕宦(官)を求めず。……役人ではない
  二には寡欲にして徳を蘊(つ)む。……欲をもとめず功徳にはげむ
  三には財に居して大いに富む。……大金持ちである
  四には道を守ってみずから悟る。……仏道に精進する

居士になるのも並大抵のことではなかったようです。今となっては単なる理想像かもしれません。

2007年08月14日

季刊『禅文化』

禅文化205号

研究所では、春夏秋冬と、年に4回(1,4,7,10月の25日)季刊誌を発行している。
僧侶をはじめ、研究者、禅に興味ある在家の方など、読者は様々だ。
その内容も多岐に亘り、語録の解説もあれば、禅の美術について、また読みやすいエッセイや掛軸拝見、日本達磨伝説、チベット紀行文、和尚さんの身体講座なども。
表紙はいつも編集者が吟味に吟味を重ね、良い画を探して決めている。むろん、その解説付。
次号では、教育に関しての記事も掲載する予定だ。

禅に関心をお持ちの方は、バックナンバーのもくじを一度ご覧下さい。

季刊『禅文化』


2007年08月01日

百日紅

木登りの上手な猿も滑りそうな木だから「さるすべり」と呼ばれる百日紅。
また百日間ほど花を紅の花を咲かせることから、この「百日紅」と書かれるのであろう。
猿が上るほど大きな木ではないが、自坊にも5本ほどの紅白とりまぜた百日紅があり、今年もお盆が近づいた今頃から、きれいに花をさかせはじめた。


百日紅

百日紅について、弊所の季刊誌『禅文化』85号(昭和52年夏発行)に、歌人の松本仁さんが書かれた「わが花物語 百日紅」という文章があるので、以下に全文を転載しておこう。

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2007年07月03日

無文老師のことば

無文老師

仏教、禅のことを勉強したい。
禅ってなに? 仏教って?  信仰って?
本を読んでみたいけど何から読めば・・・。

なんとなぁく、仏教、あるいは禅のことに触れてみたいな・・・と思われた時、その時の行動が後々自分の行く末や考え方、人生を変えるきっかけになるかもしれません。
ですが、自分が何から手をつけたらいいかわからない・・・。
そんな時はまず、無文老師のことばを読んでみて下さい。
“良いもの”に出会って下さい。

「第一歩」として、研究所HPの「読む」の欄には、無文老師のお話を掲載しています。
非常にわかりやすく物事の真理をお話し下さるため、力強いことばながらもとても優しく暖かく、読み進めやすく、心にじーんと響きます。是非。

こちらからどうぞ
無文老師のことば

「わたくしは坐禅をするようになってから、坐禅こそ真のいのりであると思うようになった。絶対者の前に正しく自己をすわらせること・・・」
「甘いものを食べすぎると虫歯になるように、甘い教育を受けて育った人間は、精神的に虫ばまれてしまいます・・・」
「われわれの人生も永遠に途中であって、もうこれでいいという終点はないと思います。お互いの人格も、いかに修行をしてみても、もうこれでいいという終点はないでしょう」
「何もすることがないという人間などございません。人間は死ぬまで何かができる、何かを作っていかねばならん」

2007年06月28日

栞いろは歌「禅のことをもっと…」

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禅文化研究所は、「臨済宗・黄檗宗連合各派合議所(臨黄合議所)」の事務局も兼ねています。 例えば、浄土宗であれば、総本山知恩院といって、浄土宗をとりまとめる頂点ともいえる本山があるのをご存じですよね?

じつは、よくお尋ねになる方もおられますが、我が臨済宗・黄檗宗には総本山というものはありません。
臨済宗には大本山が14、黄檗宗には1つあり、あわせて15の本山があります。
しかしどこも同じ臨済禅の本山であり、修行僧(雲水)は別の本山の下にある道場においても修行することが認められていますし、各地方では、本山の異なるお寺同士でも密接におつき合いがあるということも少なくありません。
そこで、これらの本山の横の連携、つながりを持つ為に構成されているのがこの臨黄合議所なのです。

各本山についてはこちらから
臨済宗・黄檗宗本山
この、臨黄合議所の公式HPを、-臨黄ネット-といいます。いわば、臨済禅の公式サイトです。
禅宗寺院を訪れる皆様に、より広くこのサイトをお知りいただきたい、また、拝観した寺院にて、建物や庭の他に、より禅というものに触れていただきたいという思いから、各派本山と一部拝観寺院において、拝観された皆様に小さな栞をお配りしております。
この栞、一昨年の秋には「いろはにほへと ちりぬるを」の12種類であったものが、さらに「わかよたれそ つねならむ う」の12種類が加わり、全24種類となりました。
栞の裏には、それぞれの頭文字から始まる禅語とその説明が書かれています。
特に外国の方には珍しい写真が多いようで、わざわざこれが配られている事を目当てにお寺に訪れる方もいらっしゃるほどだそうです。
全て集めると、24種類の写真つきの禅語集のようになりますよ!
*この栞の写真は、写真家、水野克比古さん・水野歌夕さん・田口節さんらによるものです。

詳細についてはこちら。
栞いろは歌「禅のことをもっと…」

2007年06月06日

浄頭 -ちんじゅう・じんじゅう-

紫陽花の季節ですね

6月。食中毒対策からも、清潔が一層要求される季節となりました。

さて、玄関とトイレを見れば、その家庭のすべてが分かると言われます。玄関ももちろんそうですが、トイレ掃除の行き届いていない家は、内面生活も荒廃しているのではないかと疑ってしまいます。

古い清規(禅寺の規則)によると、禅院でトイレ掃除をする役職を浄頭と言います。東司(トイレ)を掃除し、水や洗剤、布などを用意し、修行者たちに気持ちよく使ってもらうための大切な役目です。

『禅苑清規』は、

浄頭は、行人の甚だ難(かた)しとする所、当人の甚だ悪(にく)むところなり。謂(い)っつべし、罪として滅せざるは無く、罪として愈(い)えざるは無く、福として生ぜざるは無し。同袍、手を拱(こまね)いて厠に上る。寧んぞ慚愧の心無からんや。

と、皆の嫌がる仕事だからこそ、功徳も多いのだと力説しています。

この文を読んで、浜口国雄さんの「便所掃除」という詩を思い出しました。

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2007年05月21日

「死んだらどうなる」-『無文全集』飛ばし読み(2)-

蓮の葉

 「人間が死んだら霊がどうなる」とか、「魂がどうなる」とか、そういうことが問題にされるのですが、仏法では問題にしないのだ。死んでからの霊というものを問題にしないと同時に、生きておるうちから霊というものは問題にしない。我というものは問題にしないのだ。何を問題にするかというと、全宇宙をことごとく我と直観のできないうちは迷いだという。客観の世界がそのまま我だ。主観と客観のない世界が分からないうちは、ことごとくが迷いである。自我というものも迷いである。死んでからの霊どころではない、生きておるうちから自我にとらわれたものの見方、ものの考え方は全部迷いだ。自我が取れて、主観と客観とが一枚だという世界が分からんことには仏は分からん。真実の自己は分からん。

(『無文全集』第九巻p617より)

2007年05月15日

「ご利益」-『無文全集』飛ばし読み(1)-

すずらん

 多くの宗教というものがご利益というものを教えるのであるが、禅宗はそういうことを言わんのが建前である。自分の外にある神さまを拝んで、そのご利益をいただく、人間はそういう力のない奴隷的なもののごとくに、多くの宗教は教えるのであるが、そうではない。めいめいの中に神さまがあり、仏のあることが分かるならば、「能く千災を滅する」のだ。災難などは自然になくなってしまう。滅しようと思わんでも自然になくなるのである。心空王が分かるならば、心が空になるならば、災難は自然になくなる。

 親鸞聖人も『歎異抄』の中で「念仏者は無碍の一道なり」と言うておられる。念仏を唱えておったら災難は自然になくなるのだ。頼んでなくなるのではない。念仏を唱えておったら、悪事や災難は自然に退散していくのだ。何も思わん者には敵はない。何も思わなければ、災難が向こうから避けていく。赤子のように無心であれば、千災はおのずから避けられるのである。
 
 臨済禅師も言うておられる。「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自ずから至る」と。人間、生きておる間は、どうしてもいろいろないいことを求める。やっぱり生活も楽な方がよろしい。家庭も円満な方がよろしい。病気もせん方がよろしい。学問をする方は学問を成就したい。字や絵を書く方は早く立派なものが書きたい。商売をする方は成功したい。そのように、皆な願うことを持っておるが、その殊勝、何かいいことを頼んで求めては駄目だ、と。何かをあてにしたら、越中褌と何やらは向こうからはずれてくるのだ。正念相続し、真っ直ぐな心で生きていくならば、無心であるならば、「万徳を成就す」だ。おのずから体も健康になり、食べる物にも不自由せん。商売も繁盛し、学問も芸術も成就してくるのである、と。
 
 「衣を思えば羅綺千重、食を思えば百味具足し、更に横病無し」と臨済禅師は言われた。本当に禅が分かり、本当に心が空になるならば、着物を着たいと思ったら、薄物でも羽二重でも、欲しいものはいつでも手に入る。「食を思えば百味具足す」、食べたいと思えば、どんなご馳走でも食べられる。「更に横病無し」、交通事故で死んだり、野垂れ死にするようなことは決してないと、臨済禅師も保証しておられる。

(『無文全集』第九巻p386~387より)