霊場 国東半島 その2
両子寺を後にして向かったのは富貴寺(ふきじ)。
こちらも西暦718年(養老2年)に仁聞が開基したと伝えられる国東半島の古刹である。
両子寺とは全く趣のちがう小さなお寺ではある。
両子寺を後にして向かったのは富貴寺(ふきじ)。
こちらも西暦718年(養老2年)に仁聞が開基したと伝えられる国東半島の古刹である。
両子寺とは全く趣のちがう小さなお寺ではある。
大分県北部に位置する国東半島は霊場といわれるほど多くの寺院があるのをご存じだろうか。
実は私は知らなかった。
というより、京都や奈良が実近にあるし、熊野や四国は存じていても、九州に霊場と言われるようなところがあろうとも思わなかったし、そんなに古い寺院があろうとも知らなかったというわけだ。
九州の方には誠に失礼な話で申し訳ない。
さて、そんな国東半島を友人の車で連れてもらった。

出張で四国(愛媛)へ行っていました。
連日35度を超える猛暑だというのに、真っ黒に日焼けした顔に白装束のお遍路さんをおみかけしました。
さすがこの時期に歩いてまわろうとされる方達。お1人で歩いておられる方がほとんどでした。
お1人といえども、お隣には同行二人、弘法大師さんがついていてくださる。もくもくと歩き続けるそのお姿に、本当にお大師さまが一緒についておられるような心強さを見た気がしました。
私もいつか、歩いてまわれたらなぁ…と夢見る今日この頃です。
溢れる緑、お大師さん縁の数多くの寺、霊峰、青く穏やかな海。澄み渡る空。温泉にみかん畑。砥部焼。日本てやはり美しいなぁ…と心底思える地、愛媛です。


長瀬(名張市・上写真)をあとにし、伊賀上野へ…。
藤堂高虎ゆかりの伊賀上野城や、松尾芭蕉を記念して作られた俳聖殿、芭蕉の五庵のひとつで、唯一現存する蓑虫庵は以前訪れた為、その近くにある伊賀焼の谷本洋さん、あけみさん夫妻のギャラリーへ伺います。
谷本さんの作品は、古典的な伊賀焼に対する真摯なまなざし、お人柄が出るかのようなあたたかみも感じ、それでいてかっこ良くセンスあるものばかりで、伊賀焼といえばお茶人などに愛される陶器ですが、谷本さんの作る作品の凛としたたたずまいは、現代の若者にも「かっこいい」と受け入れられるのではないでしょうか。
伊賀焼のみならず、ヨーロッパ留学で培った独創性ある陶画(陶板)や器の数々も楽しく、また、奥様の作品も他には無い感じで、使い方を模索するのが楽しく、いつまでいても飽きる事のないギャラリーです。
また、こちらの作品には、山村御流による花も生けてあり、これがまたいつ行っても楽しみなのです。

名張に住む友人の所を訪れました。
名張というところは、三重県にありながらも奈良にほど近く、話すことばや文化なども、奈良に近い事が多いそうな。
また、伊勢に通ずる街道が通っている為、街道筋には古い家が未だに多く残り、「昔の人々もここを通りお伊勢参りをしたのか…」と容易に想像できる風情が残っています。
なだらかな緑溢れる山々に囲まれ、美しい川が流れるこの地は、京都と同じく盆地で、冬寒く夏暑いものの、自然が多く残るせいか気候の厳しさよりも土地の豊かさを思わせます。

長瀬の川には鮎釣り人がたくさん! とある釣り人さんはこの日6匹の大漁だったとか。羨ましい天然鮎です。
研修で大分を訪ねていた際、以前から親交のあるお寺のご婦人にお願いして、大分市内にある、竹工芸師 生野(しょうの)徳三氏のご自宅を訪ねた。
「雨竹」。ちょうど梅雨の時期であり、この床に相応しい軸がかけてある。
私事ではあるが、毎年年始には、先のお寺のご婦人が贈ってくださる、生野さん作の「翠竹箸(すいちくばし)」で、お正月のお雑煮を頂くことが恒例となっている。このお箸は青々としている上に、先が細く、長さもほどよく、とても使いやすいので重宝するのだ。
このたび大分滞在中に、竹細工の山地である大分で、是非、生野さんの工房をみたいと思いお願いして、その願いがかなった。
先代の故・生野祥雲齋は人間国宝であり、また徳三さんも日展会友として活躍されている。
このオブジェは、近く開かれるアメリカでの展覧会に出品されるというものだそうだ。非常に手の込んだもので、竹のしなやかさがそのまま表われているように感じた。
部屋の外には苔むした庭と池があり、蛙がなき、鯉が跳ねる。ご自宅の裏には山が広がり、涼しい風が吹いていて、別天地にいるような気分にさえなった。
大分県の住職研修会へ、弊所の発売している「宗教法人管理システム 擔雪(たんせつ)II」の講習をするようにと呼ばれて出向いた。
今回、偶然にも2つの別の研修会が続いて行なわれることになったため、二泊三日での別府泊まりである。
このころの九州は雨が続いており、大分空港に到着した時も小雨模様であったが、住職研修会の役職を担っておられるお寺の寺庭婦人様が、わざわざ空港までお迎えに来ていただいていた。
会場までの車中でお話を伺うと、いろいろとご縁があるようで驚いた次第。世間は狭い。
このお寺は、あの湯布院の温泉地のはずれにあるということで、研修会修了後、湯布院観光を兼ねて、お邪魔させていただいた。
佛山寺というこのお寺。以前は堂宇がすべて葦ぶき屋根であったが、近年、火災によって焼失し、この山門がその面影を残すのみである。

庫裡の横には、近所の子どもたちが自由に読むことができる私設の図書室があった。子どもたちが沢山いるのですか? と尋ねたら、それが少なくて……と。
やはりここでも少子化でせっかくの図書も利用される機会が少なくなったようだ。自然とお寺に集まる子どもたちも減っていることになる。
武田神社参詣のあと、甲州市にある恵林寺へ赴いた。
言わずと知れた、武田信玄公の菩提寺であり、かの夢窓国師が開山の臨済宗妙心寺派の名刹である。
車をとめて、杉木立の長い参道をゆったりと歩くと、古びた三門に至る。
研究所からの出張で、山梨県甲州市にある大本山向嶽寺を訪ねることになったので、その約束の時間前に、山梨市にある武田神社へ参詣した。
ご存じの通り、あの武田信玄公の居所であった居城(城と言っても平城で、城郭ではない)であった躑躅ケ崎館をもとに、信玄公をお祀りして武田神社として残っているものだ。
武田神社の参道とも言える通りには、山梨大学があり、ゆるい登り坂になっているが、この通りには電線や電柱がなく、とても美しい通りである。
この地の人たちが、如何に信玄公を大切に思われているかが、そのまま表われているようである。
回りには外堀や内堀もあり、武田のお屋形さまがおられたころを感じさせる。
大河ドラマ『風林火山』の影響で、きっと去年は沢山の観光客が来たのだろうが、今回、土曜日ではあったが、比較的ひっそりとしていて、おちついてお参りできた。
さて、まだ時間があるようなので、もう一つ、前から訪ねてみたかった恵林寺へ行くことにした。(つづく)
楽しみにしていた観音様は、とても美しい十一面観音で、背丈も大きく、手を合わせた自分がほんとに小さく感じてしまった。そういえば、奈良の長谷寺の観音様はさらに大きな大仏で、その前でも頭を垂れた自分がいたことを思い出す。
また、阿弥陀堂の阿彌陀様や、弁天窟という洞窟には弁天様の石像があり、他にも諸堂宇があって、建物は建て替えられたようで古くはないが、お参りしてよかったと思った。
写真は撮れないので、是非、ご自身で拝観にお出かけになってほしい。
さて、この長谷寺には、境内のところどころに美しい石灯籠などがあったので、ご覧に入れたい。

それはともかく、ここの御本尊は、十一面観音さまで、観音さまが好きな私としてはうれしい限り。
まだあじさいの開花のピークには早いものの、境内には、いろいろな花が見えるようなので、写真におさめてきた。
雲居禅師350年遠忌記念事業の一環として、松島の瑞巌寺より承った『雲居禅師墨蹟集』の撮影で四国へ。
伊予の地は、雲居禅師生誕の地でもあるから、比較的墨跡などがよく残っている。
今回は、広島にある臨済宗大本山、佛通寺の撮影を終え、しまなみ海道を渡って四国へ。
穏やかな青い海に、ぽっかりと浮かぶ島がたくさん見えるこの辺りの景色は、人の心までまぁるくするようだ。
まるで海を悠々と泳ぐような鯉のぼり! 桜も満開でなんとも美しい日本の風景です。
高岡 瑞龍寺1はこちら
総門を入り山門を正面に立つと、左に禅堂、右に大庫裏がシンメトリックで美しい。
回廊をめぐると、この禅堂や大庫裏をめぐることができる。
件の禅堂であるが、入堂は禁じられているので前門から覗いただけであるが、私が知っている中では一番、単の高さが高くて踏み台があるほどで、また単箱の後ろは障子が無いためにかなり薄暗く感じた。
普段はこの状態であるから、あの吊り広告のように坐禅を組ませてもらうには予約が必要な様子だし、それにしても、ここは現在、修行道場でもなく雲水もいるようではない。ただの観光寺院にしておくには、甚だ勿体ない気がする。
さて、瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長の菩提寺であるが、その利長公の墓所は瑞龍寺の中にはなく、総門を出てまっすぐに八丁道を行くと突き当たりにあるが、法堂の裏手の左には分骨石廟があるらしいので行ってみた。
ここには利長公の他に、織田信長公父子の分骨された廟も並んでいた。信長公の娘が利長公の正夫人(玉泉院)であるからであろう。本能寺の変の後に、その分骨をむかえたものとされる。
これらの石廟は富山県の指定文化財になっている。
今年も暖冬かと思われたが、二月はけっこう京都でも雪が降った日が多い。 そんな中、車で岐阜の奥の方へ行ってきた。 走る内に吹雪で道路が見えなくなり、どちらにカーブしているのかわからなくなるくらいの猛吹雪。 もちろんスタッドレスタイヤやチェーンを履いていなければ、どうしようもないだろう。 ちょっとした恐怖心さえ覚えるほどの降り方だった。
特に下り坂は怖い。前の車に続いてゆっくりカーブを下っていくと、3台ほど前の車が突然停止し、私も含め後続車も停止した。
なにがあったのかと思って目をこらすと、下から登ってくる大型バスが道路を塞ぐように停車しているではないか。
運転手をはじめ数人が右往左往しているのが遠くに見える。
仕方なくコートを来て車からおりて見に行くと、なんと、そのバスの向こう側に寄り添うようにもう一台、バスが止まっているのだ。
二台ともチェーンをつけずに上がってきたらしいが、スリップしてしまったらしい。
しかし二台が引っ付きすぎているために、今さらチェーンを装着することもできない様子だ。
待つこと1時間。途方にくれかけたころ、私の後ろの方から巨大な除雪車が登場し、バスの前に行き、ワイヤーをかけて、引っ張り上げて行った。圧倒的な力に拍手喝采しそうになった次第。
しんしんと降る雪の中の1時間は、なかなか心まで冷える時間だった。


先日、是非とも味わってみたい銘菓がある関宿(三重県亀山市)に立ち寄る機会がありました。
日も暮れた中を菓子屋目指してすすみます。何故でしょうか、とっても暖かい感じ、どこか懐かしい感じに包まれています。
そう、明かりは全て白熱灯。ぼんやり暖かく町を照らしています。そしてどこか開放感があるような、ゆったりしているような感じは…そうです、電柱や電線が全く見当たらない!!!
ここまで違うものか…と感動しつつ、京都もこうなればなぁ…とぼんやり考えていました。
「駿河にはすぎたるものが二つあり 富士のお山と原の白隠」といわれる。 その富士のお山をみつつ、白隠禅師が開山の龍沢寺に、死活庵老師の津送に行った時のことである。 津送のことは先のブログに書いたが、この日、京都では雪が降っていたのに、この静岡では快晴。ご覧の通りの富士山の雪景色である。 上の写真は、新富士駅附近の新幹線の車内から撮影した。このあたり、製紙工場などの煙突が立ち並び、なかなかベストショットが撮影できないのだが、これはなかなかうまくいった。 右の方に大きくえぐれているところは、宝永4年(1707年)の大噴火の跡であるという。ちょうど白隠(1686-1769)がこの近くの原宿に生まれて少年のころのことである。 この白隠禅師の生涯を劇画にした『白隠和尚物語』(禅文化研究所)にも、そんなシーンが出てくる。

近鉄平岡駅(大阪府)で下車し、近鉄生駒駅(奈良県)まで歩いてみた。行く手に立ちはだかるものは、大阪と奈良を隔てる生駒山地である。大阪側からの登りは傾斜も急でかなりきついが、奈良側は比較的なだらかである。
県境の暗(くらがり)峠を越える。かつては奈良と大阪を結ぶ奈良街道が通る交通の要衝であった。現在でも308号線というれっきとした国道なのだが、その狭隘さゆえ自動車の行き来はほとんどなく、ハイキングコースとして人気が高い。
峠に立つと、昼なお暗い「くらがり」峠というイメージからは程遠く、奈良方面への展望は良好であった。ただ、目の前の信貴・生駒スカイラインが展望を大きく阻害しているのが、少々残念ではあったが。
峠付近には、風情のある石畳や道標がいまも残り、峠につきものの茶店(喫茶店?)もある。かつては今よりよほど多くの人馬が行き交い、この風景を眺めながら、束の間の休憩を取ったことだろう。
峠道を下る途中で、自転車を押しながら上って行く男子中学生たちとすれ違った。
「この峠越えたらな、戎橋行ってな…」
などと話しているのには笑ってしまった。山を越えたら、すぐに大阪の繁華街だと勘違いしているらしい。彼らにしてみれば、この峠越えも、ちょっとした冒険なのだ。
峠の向こうは、あこがれと恐れのないまぜとなった異世界であるというのは、今も昔も変らないのだな、などと考えながら歩いた。
第4回“禅と文化の旅”その1はこちら
後ろ髪ひかれる思いで円照寺を後にし、昼食の為、菊水楼へ。
文化財にも指定されているという立派な建物に皆の心も踊り、秋の味覚を堪能しました。
昼食を終えてバスに戻ろうとすると、見送りをするかのように立派な男鹿が。
関西に住む者、ことに奈良をちょくちょく訪れている者にとっては何ら珍しくない鹿も、その他の地域から来られた方には非常に珍しいようで、しばし撮影タイムとなりました。
奈良の宇陀群にある曽爾高原を訪れた。
この時期、金色に輝くすすき野原が素晴らしいのだ。
百聞は一見に如かず。
曽爾高原のすすきを見ていると、池田遙邨画伯の昭和59年の作品、「うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火」(京都国立博物館蔵)を思い出す。私の好きな絵だ。
日本の伝説には、著名な高僧たちがしばしば登場する。それら高僧たちは各地を行脚し、困った人を助け、村人に恵みをもたらす。その中でも代表的な人物は、やはり弘法大師空海であろう。 水に不自由をしている村人のために、大師が杖で地面を突くと、そこからこんこんと泉が湧き出した、という「弘法清水」の伝説は全国に分布する。弘法大師のかわりに慈覚大師や泰澄大徳、あるいは蓮如上人などが主人公となっている地方も多い。いずれも庶民のあいだに広く知られたヒーロー的人物である。
さて、達磨大師がそのような伝説の主人公となっている地が山形にある。「お達磨の桜」という桜の木もあるという。関連書籍やインターネットから手に入るのは断片的な情報ばかりである。
もう半年以上前になるが、桜の咲く季節に、はるか山形の地まで出かけた。11月20日に新刊発売する『日本にのこる達磨伝説』の取材のためにである。本書は、こういった日本における知られざる達磨伝説を集成したものだ。
山形県と聞いて、ある年代以上の人なら、テレビドラマの「おしん」を思い浮かべるのではなかろうか。貧しいながらも懸命に生きる人々の姿は視聴者に大きな感動を与え、雪深い山形の地は日本人の郷愁をさそった。
また、山形の代名詞ともなっているのが、月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山である。修験道の聖地として多くの宗教者が集まり、山岳修験のメッカとなった。同じく修験で有名な鳥海山や葉山、さらには山寺と呼ばれる立石寺などもある。宗教的雰囲気の色濃くただよう土地である。
山形駅からJR左沢線の列車に乗る。朝と夕方は通学の高校生の声がガヤガヤと喧しいが、その時刻以外は静かなローカル線である。「左」を「アテラ」とは、なかなか読めまい。広大な田園地帯の中、しばらく列車にゆられると羽前長崎駅に着く。そこが達磨伝説の地、中山町である。

「お達磨の桜」は、最上川の支流である須川のほとりにあった。その地は、かつての山形街道の渡し場の位置にあたるともいわれる。そこからは月山と葉山を望むことができる。なだらかで女性的な月山と、ごつごつと男性的な葉山が、まるで夫婦のように肩を並べる姿は雄大である。
「お達磨の桜」とは、三株のエドヒガンの巨木の総称であるが、残念ながら一株は落雷により焼失してしまい、一株は枯死寸前である。残りの一株は幸いに樹勢盛んで、美しい花を咲かせていた。現在では町によって公園として整備がなされ、周辺にも多くの桜が植えられて桜の名所となっている。
この桜には、名前の由来ともなった、不思議な伝説が伝わる。
この伝説の内容について知りたい方は、禅文化研究所発行の『日本にのこる達磨伝説』をご覧ください。

私の好きな寺の1つ。明恵上人の庵として知られる高山寺です。11/4(日)に訪れましたが、なかなか美しい紅葉が見られました。紅葉を楽しみに京都を訪れる方は、どうぞ目安にして下さい。ちなみに、3日に鞍馬を訪れた知り合いは、栂尾ほどに紅葉はしていないと話していました。

このあたりは、空気が違います。京都市内から30分ほど車を走らせればこんな所がある事に京都に住む有難さを感じます。
大森地区を散策するうちに気づいたこと。 さほど大きな町並みではないのだが、意外にもお寺が多いのである。 臨済宗はないようだったが、浄土真宗を主として、5~6カ寺はあったのではないかと思う。 採掘によって亡くなった方を弔うということも少なくなかったのであろう。 おもしろいのは、どの寺もこの地域の家と同じ赤瓦の本堂である。
そして、もう一つ、下の写真を是非見ていただきたい。
日本で一番長い名前の郵便局である「石見銀山大森郵便局」。 今回の出雲行の最後の目玉が、ここ岩見銀山遺跡である。 今年から、世界文化遺産の一つに「石見銀山遺跡とその文化的景観」が登録され、関西の駅や電車などでも広告が目立つようになった。
鎌倉時代に発見され、室町時代~明治時代までと永きにわたって銀を産出してきた場所であり、特に戦国期には、大内氏→尼子氏→毛利氏と領有がうつり、秀吉の朝鮮出兵の際の戦費にも利用されたようである。また、ここでの銀精錬方法が産出量を伸ばすことに優れていたため、その後の日本各地の鉱山技術の基礎になっているとされる。
しばらく間があいてしまったが、出雲行きのつづきにおつき合いいただきたい。 出雲にも名の知れた窯元があり、そのなかの二ケ所に旅のついでに立ち寄ってみた。 一つは温泉として日本最古の歴史を持つ玉造温泉の程近くにある、布志名焼きの窯元「湯町窯」。ガレナ釉を使った食器で有名で、民芸の窯として知られている。 というのは、島根県出身の陶芸家・河井寛次郎、そして柳宗悦やバーナード・リーチといった人達の民芸運動によってもたらされた影響や助言をうけて育ってきた窯だからだ。 展示されているものは民芸調のものが多い。 そのガレナ釉や海鼠釉の陶器の品を自分のお土産に一つ二つ・・・。

美ヶ原高原から白樺湖方面へビーナスラインを走り、ニッコウキスゲなどの高山植物が咲きそろうことで有名な霧ヶ峰高原に訪れた。
私が訪れた時期は花期の終わりごろだったため、一面に咲くニッコウキスゲを観賞することはできなかったものの、広い草原の中で黄色く咲く花はとてもきれいだった。
丘を少し登ると、ころぼっくるひゅってという小さな山小屋(ヒュッテ)がある。昭和31年に作られた山小屋で、車の通る道路もないころから登山者の安全を守るための避難小屋として役目をしてきたそうだ。
春期から終期の間はカフェも営業されており、トレッキングを楽しむ人たちの休憩場所として利用されている。高原の見えるテラスでコーヒーを楽しみながら、冬期の雪に覆われた景色を想像するのもおもしろい。

長野自動車道松本ICからビーナスラインに入り、美しい景色を楽しみながら山本小屋前の駐車場に到着。
美ヶ原高原は自然保護のため、マイカーの乗り入れが規制されている。美しい景観が守られるためなら規制に大賛成だ。
駐車場から1時間ほど歩くと王ヶ頭ホテルに到着。美ヶ原高原の頂上、標高2,034mに建つ雲上のホテルで、登山者用の山小屋として営業を開始したのが始まりだそうだ。
天気の良い日には、雲を眼下に望む絶景が楽しめる。雲海や星空を眺めながらの展望風呂もぜひとも利用してみたい。

最近の日本では、瓦屋根の家が・・・ことに都会ではどんどん無くなってきているように思える。
が、出雲に行くと、ほとんどの家が瓦を使っており、太陽の光に輝く(本当につやつやと光沢があるのです!)黒や赤の瓦が目に眩しいくらいなのだ。
そして何を隠そうこの地方の屋根には、しゃちほこが!
そしてさらに鬼瓦には、福の神が標準装備。家によっては、打ち出の小槌が仕込まれている瓦もある。

安藤忠雄さんの建築物を見ようと淡路島に渡った。
淡路島では多くの安藤建築に出会える。
まずは、大きく分けて下記5つから成る淡路夢舞台。
☆兵庫県立淡路夢舞台国際会議場
☆ウェスティンホテル淡路 リゾート&コンファレンス
☆展望テラス レストラン&ショップ
☆淡路夢舞台温室 奇跡の星の植物館
☆野外劇場

涼しい伊吹山を後にしてドライブウェイを下り、関ケ原インターへ向かう国道365号線から、ほんの200mも入ると、そこに笹尾山がある。
ここはあの天下分け目の戦いである関ケ原の古戦場、西側の大将、石田三成の陣があったところである。イメージからすると、もっと高い山のように思っていたが、ちょっとした丘のような山である。
戦いは今から406年前の秋、この地でたった一日で終わった。当初優勢だった西軍だが、小早川秀秋の反逆にあった西軍は総崩れとなり破れてしまい、その後、徳川の時代となるのは、ご存じの通りである。
筆者は司馬遼の『関ケ原』を読んで以来、石田三成に傾倒しているため、小早川の裏切りは許せないのである。
石田三成には島左近というすぐれた軍師がいて、この関ケ原の戦いで憤死した。その勇猛さは東軍のなかでも語り草になるほどだったということである。
関ケ原の戦いの日は、もっと秋であったが、この挿すような日差しの中でこの地に立つと、彼らの雄叫びが聞こえてくるような気がしてならない。
余談だが、ここからそれほど遠くない彦根城では、今、築城400年祭が行なわれていて、ひこにゃんというマスコットで大いに盛り上がっている。
これに合わせるように、同じく彦根にあった、石田三成の居城「佐和山城」のPRとして、島左近のキャラクター「しまさこにゃん」まで登場している。本来のイメージとはだいぶ違うが・・・。
「雲はわき 光あふれてー♪」 大会歌にある全国高校野球大会は今年も終わった。
わきおこる雲をみて、この歌を思い出して、思わず口ずさんでしまった。
伊吹山のお花畑もさることながら、私は雲をみていてもしばらく飽きなかった。
雲はいつも天空にあるものだが、自分が高い位置にいると、目の前や下に雲があることにふと気が付く……。

冬は雪に閉ざされる伊吹山であるが、春から秋にかけて、とても沢山の花が咲き乱れる。
これから何日かに亘って、伊吹山の草花を紹介したい。
8月に訪ねると、まずはシモツケソウが一番きれいに目立つ。
調べて知ったのだが、シモツケソウとシモツケはよく似ているが別の花。
花はよく似ていても葉が異なるのだ。さらに、シモツケソウと京鹿子(キョウガノコ)は葉っぱもよく似ているが、これも違う花のようだ。
これは、シモツケソウ。

時折、ひときわ目立って咲いているのは、コオニユリ。
自然界の色とは、人智を超越したかのようななんとも不思議なものである。

かの関ケ原の合戦があったあたり、滋賀県と岐阜県の県境にある標高1377mの山が伊吹山である。
日本百名山の一つでもあるこの山は、ヤマトタケルノミコトに関する神話があったり、『源氏物語』の「関屋」の巻にも出てくるので、伊吹山は歌枕にも使われる。
この山は薬草でも知られるが、様々な野草が自生しているお花畑があり、登山客や観光客の目を楽しませてくれる。
何かと忙しくて避暑とまではいかないが、伊吹山ドライブウェイを使えば、車で8号目まで登れるため、まさしく百花繚乱のお花畑を容易に楽しむことができるのだ。
夏真っ盛りでも、雲が眼下に見えるほどだから、風はとても涼しい。
次回は花にクローズアップ。
筆者の自坊からそう遠くない、滋賀県近江八幡市には、琵琶湖につながる水郷地帯がある。
群生する葦の間を入り組んだ水路が通っていて、安土の内湖へと繋がっているのだ。
ご覧の通り、人口建造物が見えないポイントもたくさんあり、私のお気に入りのスポットである。
しかし、案外、読者諸氏もこの風景を見たことがあるかもしれない。というのも、テレビの時代劇の撮影で時折この辺りが使われているからである。
また、「水郷めぐり」という、和船で水辺を楽しめる観光でも有名だ。
今年の夏は格別に暑い。この風景でもみて、心を涼ませてみてはいただけぬだろうか。

奈良の中心部から少し車を走らせた所にある赤膚焼の窯元(奈良市と大和郡山市に点在)。
遠州七窯の一つにも数えられている。
奈良へ観光でやって来ても、ここを訪れるのはお茶かお花をする方だろうか。
焼き物好きが訪れる窯元という感じの場所では無い気もする。
奈良に家元(円照寺門跡)がある山村御流の華展では、よく赤膚焼の花器を目にする。
私がよく訪れるのは上の写真、古瀬堯三氏。日常に使える器から茶道具まで、多くの器達が迎えてくれる。
初めて来た際は、こんな所に立派な登り窯を構える窯元があったのかとびっくりした次第。
赤膚という変わった名称。地名からという説と、鉄分を多く含む陶土を用いる為、素焼きした表面が赤くなるからという説があるらしい。
赤膚焼の特徴といえば、なんともいえないとろりとした(感じの)オフホワイト色の釉薬、そして奈良絵。
この奈良絵は、お釈迦様の生涯を描いた絵過去現在因果経に由来すると聞いたが、奈良らしく、五重の塔や鹿などもお目見えするなんとも愛らしい図柄なのである。